
高山の文化を高めた人々30
ただ一道に飛騨を撮った細江光洋 文:西村 宏一
昭和28年、岩波写真文庫から細江さんの『飛騨・高山』が発刊された。
すでに国内外の多くのコンクールで賞を受けた輝かしい経歴の持ち主であったが、一般の注目を浴びたのはこれが最初であった。
徽章の跡の穴のついた軍帽を目深にかむった少年の、庇の陰から見つめる賢そうな目。
田舎家の黒光りする柱にもたれて脚を投げ出している、幼い女の子の屈託のない様。
今でもそれを初めて目にした印象のままに思い出すことができる。
ともに今は廃村になった白川郷加須良の一コマである。
また御嶽を後景に全てが榑葺の平屋の農家が点在する日和田の俯瞰風景があった。
家の廻りには猪除けらしい木柵が巡らされていた。

次には昭和30年代、細江さんの作品の数々が偶然人の手から渡された。
一つは荘川村の婚礼風景である。披露宴たけなわ、大きな木製の金精様が花嫁に突きつけられ、花嫁が口を押さえながら身をよじっている一枚。
それに絵葉書大のモノクロの円空仏。
共に細江さんの先駆的業績である。
それから荒垣秀雄さんとの共同作業『飛騨』(昭和39年)が来る。
ここでは老人たちが美しい。
今ではこうした風雪に磨かれた顔を見ることができない。
先の農村の子供の純な顔つきと共に、失われたものとして、細江さんが哀惜の言葉を洩らすのを幾度も聞いた。
次にカラーの時代が来て、その魁をなすのが、同じ大垣中学同窓の縁を持つ伊藤ていじさんとの合作『飛騨路の魅力』である。
ここには建築家の伊藤さんが愛した吉島家の優さ姿がある。
そして細江さんが生涯の課題にしていた祭屋台の飾り金具や織物やのディテイルがある。
細江さんが常々口にされた願望に、円空仏と屋台の作品集があったが、遂に果たされぬ夢に終わってしまった。
作者と共に私達の側にも痛恨の想いが残る一事である。
御母衣ダムに水没する前の昭和30年頃、巨大な合掌家屋の骨組みの上で、一人我が家を解体する村民を撮影してから、それらの映像が我々の手に渡るまで、世界遺産に村が指定され、作品集『白川郷』が刊行されるまで長い歳月を待たねばならなかった。
その期間を耐えて待っていた細江さんの寂しさを思うと切ない気がする。
作家としての活動を支えるために勿論営業写真家としての日々があった。
高校の卒業アルバムはその一つであるが、私はその何冊かの作製で、細江さんと交渉を持った。
パターンの決まってしまった観のあるこの分野でも、細江さんは次々新しい改革を提案された。
学校から外へ生徒を連れ出して集合写真を撮ること、全員笑顔の個人写真を並べることなどである。
代情山彦先生が終の病を養っておられたその時、細江さんも偶々同じ病院に入院中であり、その時のお二人の交流から、著作集発刊を私に強く慫 された。
常に飛騨の民俗学の底支えを心懸けられたのである。
宿痾の肺気腫のため四六時中酸素吸入器の助けを借りて、しかも常に意気軒昂であった細江さんは懐かしい先達であり、かつ厳しい励ましの鞭である。
平成15年5月、八十三歳をもって写真一道の生涯を終えた。
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