| 2005/10/21 更新(広報第97号より)
高山の文化を高めた人々 29 「飛騨春秋」の桑谷正道
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高山の文化を高めた人々29 「飛騨春秋」の桑谷正道 老田正夫
「飛騨春秋」は昭和31年(1956年)3月に創刊されています。桑谷氏がどんな意図で雑誌を発刊したかを創刊号の編集部だよりから抜粋してみます。
『このささやかな雑誌を郷土史愛好家の皆さんの机上に贈ります。この雑誌の使命は、わが愛する飛騨の歴史を研究することにあるのですが、大家の原稿ばかりを載せないで、町や村の隅で仕事のかたわら趣味で勉強しておられる方の原稿なども発表させていただきたいと思います。どうかご遠慮なく原稿をお寄せください。』
いかにも桑谷氏らしい発想です。飛騨の郷土史にかけた人生でした。桑谷氏は大正8年6月6日大阪市で生まれ、軍隊から復員して、神岡鉱山に勤務、神岡鉱山では労働組合の機関紙を編集していました。戦地からの復員中の船の中でガリ版刷りの新聞を作ったという話を氏の知人から聞いた事がありますから、編集者としての芽生えは早くからあったのでしょう。
大阪市生まれの桑谷さんがどうして飛騨の郷土史に関心を持つようになったのかは聞きそびれましたが、桑谷さんが勤務していた当時の神岡町には「高原郷土史学会」があり、立派な会報を発行したりしていましたからそのへんの影響があったものと考えられます。
発刊当時の「飛騨春秋」は定価50円(送料8円)でした。執筆者は角竹喜登、笠原烏丸、富田令禾、代情山彦、土田吉左衛門などの先生方が名前を連ねて、今見ると実に豪華な顔ぶれです。
戦前は「ひだびと」「飛騨史壇」などがありましたが、戦後は郷土史の研究家が広く一般に発表する場所がありませんでした。桑谷氏の目の付け所は的を射たものでした。
創刊号は原稿が多すぎたためかなりの原稿を第2号にまわすとお詫びが記されています。雑誌の内容の充実とは別に継続の経済的苦労は並大抵のものではなかったと推察されます。郷土史だけに内容が固く大衆受けする雑誌ではないので、広告の募集には奥様の満里子さんが苦労されていました。満里子さんは毎日のようにバスに乗って飛騨中を駆け回って協賛広告集めに必死でした。「飛騨春秋」は桑谷夫妻の苦労の結晶でした。
勉強熱心な氏は、雑誌の編集の傍ら、様々な調査・研究に打ち込みました。童顔で巨漢、汗っかきで夏になると桧笠を被って汗を拭き拭き飛騨中をかけめぐって、飛騨の文化・歴史そして民俗を探訪・研究し、その成果を「飛騨春秋」や諸著書に著しました。
名著といわれる『飛騨の系譜』は女子大の教科書にも使われました。そのほか『高山の屋台』『飛騨 歴史と風土』なども著名です。
飛騨人以上に飛騨を愛し、NHKテレビにも出演し、全国に飛騨を発信し続けた氏でしたが、残念ながら昭和51年、56才の若さで死去されました。
その後、「飛騨春秋」の火を消してはいけないとの住浅吉さんの提案で住二郎さんと私の三人で編集を続け、数年後今の「飛騨春秋」にバトンタッチしました。
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