| 2005/06/09 更新(広報第94号より)
■ 高山の文化を高めた人々27
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■ 高山の文化を高めた人々27
多彩な知識の奉仕 真木 潔 文:小鳥幸男
終戦間もない昭和二十二年、毎日新聞神戸支局記者だった真木潔はふるさと高山に帰って来た。神戸は厳しい配給時代を生き抜くためには住みづらい土地であった。心臓を悪くした真木はひそかに高山に戻るために職を辞した。
高山へ帰って来た真木は心中温めていた構想の実現をしようと考えた。そこへ思いがけない知らせが入ってきた。「岡山の方で大量の用紙が手に入るらしい」終戦後物資の不足は極点に達し、金があっても現物はないという時代、多くの出版にたずさわる人達にとって垂涎の的であった。それには一つの条件があった。「岡山県津山市で地方紙を創刊して欲しい」というもの。
紙が手に入ることになればあとは資金、時の高山市長、日下部礼一に相談した。日下部はGHQ(総司令部)の強い指導で、高山市広報の発行を課題としてかかえていた矢先、この話は渡りに船の提案であった。「赤字になったら市と会議所でめんどうを見る」という、何とも不思議な新聞が生まれた。月六回発行の日本一紙面の小さい新聞『高山市民時報』が創刊したのは昭和二十三年三月一日。津山へは、旧友の元岐阜新聞の高橋義正と一緒に出かけ地方紙創刊を何とかまとめて帰って来た。
この経験は『高山市民時報』に大いに生かされた。当初の発行部数二千部、上々の出足であった。創刊号には「配給」が一面の約四分の一を占めている。〔砂糖〕六十一才以上の老人に三十匆ずつ(約四圓六十五銭)を二日川東、三日川西、四日農村部に食品組合下一之町倉庫で配給、物資購入通帳予備券四號。かくて後に『暮しの手帖』をして「飛騨の高山でいまいちばん読まれている新聞」とまで言わしめた『高山市民時報』が発足した。爾来、高山市役所にも商工会議所にも厄介になる必要が無かったというのは「お陰様」という外はない。
真木さんは酒好きである。今夜宴会があるという日には好きなタバコを喫わない。理由は「酒の味が変わる」の一点。飲みかければ切りがなく帰りが午前様になることもしばしば、そんなこんなで、俳号を「三更」と自ら名付けた。三更とは今の午後十一時から午前一時のこと。それほど飲んでも真木さんは乱れない。家に待つ山の神「たづさま」が何よりもこわいのである。
真木さんは知識人だが、経済のこととなるとすべて「たづさま」まかせ。下一之町の家を買ったとき高信から金を借りた。十年程して高信から利子の請求が来た。銀行で金を借りると利子が要ることを知らなかった。
真木さんは単に新聞作りに長けていただけではない。世の中が落着いてくると高山人に最高の芸能を見て貰いたいと、芸能鑑賞団体「フェニックス」を発起した。当時の高山としては画期的な出来事であり文化の高揚に貢献したのは特筆して余りある。
又、高山の伝統文化「飾り物」の活動に熱心で、高山飾物同好会長を務め、高山市文化協会長も務めた。
真木さんはとに角「おしゃれ」で「粋(いき)」であった。「宝くじが当ったら『かみでの洋服屋を名古屋に連れて行って、生地屋の店先から気に入る服を全部作らせたい」とも言った。
真木さんは博識であったばかりでなく知識欲旺盛であった。「分からんことは真木さんに聞け」で問題は解決した。代情山彦(通蔵・元斐太高校長)が生きているうちに「大将の知っとることを全部聞かまいか」と五、六人で
「山びこ学校」と名付けて洲岬の弁当を持って宮の代情の家へ月に一回通った。その頃はまだ今のようなテープレコーダーの小型の物が無かった時代、ノートにメモして帰ったが今思えば残念でたまらない。
ある時こんな話をしてくれた。「子供の頃近所に住んでおった合羽屋おらくが死んだ。若い頃のぜいたくがたたって、最後はみじめだった。棺を買う金がなかったので近所のタバコ屋からタバコを送ってくる木箱をもらってきて棺にした。はじかい箱の中へ素袷(すあわせのまんま入れられた。おらくさかわいそうにと子ども心に思った。」こんな話を語ってくれる真木さんだった。
真木さんのやり残したことは「飛騨選挙史」のとりまとめであった。死の床の枕元にもその資料を置いていたほど何よりも選挙が好きで裏話もさぞあったであろう。
(平成二年五月、八十七歳で没)
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