| 2005/05/01 更新(広報第93号より)
高山の文化を高めた人々 26 小林 幹
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【洋杖ステッキと袴】文:小林 浩
渓流釣り
私の伯父、本家の伯父さん小林幹という人は、明治三十六年十一月十五日生まれで、高山陣屋の南、道を一本隔てた八軒町一丁目に居を構えていました。
明治四十五年、教員であった父恒吉の勤務地が清見村であったため、一家は牧ヶ洞に住居を移しました。
恒吉は、酒と釣りを趣味としていましたので、牧ヶ洞の川はとりわけ格好の釣り場となったわけであります。
当然その息子である幹、私の父正一等は多分に影響を受け、以来飛騨の各地の谷に入って、釣りの醍醐味を味わったようです。
その間にもその土地の生活習慣や風習等をしっかりと記録に残していました。
教員生活
大正十二年九月、最初に赴任したのが武儀郡北武芸村笹賀(現山県市)で、一ヵ年勤務の後、翌年九月高山西小学校へ訓導として着任します。
しばらくして、教育に郷土教育が取り入れられるようになり、いやが応でも、高山を中心にした地域の地理歴史を身を以って体験することが必要になってきました。
その教材とするために飛騨全域にわたって、各地の行事、風俗及び習慣等を写真におさめ記録に残しています。
これには、斐太中学在学中、陸軍中将でその後郷土史に大きな足跡を残した押上森蔵氏に五ヵ年間直接指導を受けたその時の影響が生かされ、以後郷土史に深い関心を持ち、さらに郷土の伝説、民話にも興味を持つようになったようです。
しかし、昭和二十年十二月末日を以って、二十三年間の教員生活を終えます。
高山市郷土館
戦後の公職追放に遭遇し、困難な時代を木材会社、鉱山の事務職として勤めますが、体調を壊し、およそ四年くらい療養生活を余儀なくされましたが、昭和三十三年四月、郷土史家の角竹喜登先生の推挙があって高山市郷土館に勤めることとなりました。
郷土史は、もっとも得意とする分野でもあり、また民間企業での体験を生かして、飛騨地方の民俗文化の研究と、高山の歴史資料の調査を進めています。
特に飛騨の地形とか伝統文化の保存と伝承にはことのほか気配りをし、歴史資料の調査はもとより、峠道、庭園、石垣、滝のほか風習についても調査を続け、その成果を『飛騨春秋』や古文書講座などでたくさん発表しています。
郷土館長時代の逸話を一つ。かつて大正六年発行の『飛騨国中案内』は原本の第三巻が行方不明で欠けていたのですが、著者上村木曽右衛門の裔孫上村信三氏が原本を発見して郷土館へ持参され、大変喜んだ小林館長が早速筆写解読し、それがもとになって昭和四十五年『増補 飛騨国中案内』ができたと、校訂者の大野政雄先生がその本の「完本刊行の辞」で感謝の意を書いておられます。
常に下駄を履き、洋杖と袴姿で通す姿と、高い声の高山弁での語り口は、多くの市民の皆様から、親しみを込めて接していただいたのではないかと思っています。
昭和六十三年一月二十七日享年八十五歳で永眠しました。
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