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 2003/9/26 更新(広報第84号より)  研修旅行に参加して 「津島天王まつりを見る」

研修旅行に参加して
「津島天王まつりを見る」 越川正明

 七月二十六日・二十七日の両日、高山市文化協会の研修旅行でミュージカル「ライオンキング」とボストン美術館の鑑賞、そして愛知県津島市の「天王まつり」を見る機会を得た。 

 「天王まつり」とは五百年以上も続いているとされる津島神社の例大祭のことで、昭和五十五年には国の重要無形民俗文化財に指定されている。まつりの主な会場は、昔は川だったという天王川公園の池。


 宵祭(よいまつり)は五艘のまきわら船(図1)が主役で、午後七時の「献灯」から始まり、八時の津島神社からの使者による「迎え」を経て「出船」となる。まきわら船は囃子(津島笛)を奏でながら湖上を優雅に漕ぎ渡って行く。一年をあらわすという三百六十五個の提灯の明かりが水面に映えて、幽玄な感じがなかなか良い。この夜の見物客は約二十二万人を数えた。

 明けて二日目は「朝まつり」で午前八時四十分の「迎え」で始まるが、実はそれまでに大変な作業があるとのこと。ゆうべ遅くまで湖上を賑わせていた五艘のまきわら船は、組内の人達の夜を徹した奉仕によりその装いを一変させる。提灯やまきわらを取り外し、豪華な幕や瓔珞を付け、人形を飾りつける。私達に馴染みの春秋の高山祭の屋台に近い姿に見える(図2)。


 迎えを受けた船は午前九時、伝統で宵祭には参加しない「市江車」を先頭に計六艘で朝日に耀く湖面に繰り出す。華麗な幕が特に立派で「お旅所」前に勢揃いした姿は見事なものであった。

 この祭礼は以前は津島神社が先におこない、そのことを京都の八坂神社へ知らせていた。京都ではその後にまつりをおこなっていた(地元ボランティア説明者の話)。両者の祭神(スサノオノミコト)が同じで、ともに厄除け系統の祭礼である。稚児がまつりに深くかかわっている……等々から両神社の祭礼には深い関連があると感じられ、私には津島天王まつりが京都・八坂神社の祇園祭の原型ではないかと思えた。

 地元津島の文化に誇りを持った人たちがたくさんみえたことに深い感銘を受けた。特に、ボランティア説明員の皆さんには感謝したい。


 2003/9/26 更新(広報第84号より)  高山の文化を築いた人々21


高山の文化を築いた人々21
栃目不動堂の壁画  三島常馨
真蓮寺住職 三島多聞

 昭和四十九年八月、真蓮寺の住職であった父、三島常馨が亡くなり、私は父のアトリエを整理することとなった。

 スケッチブックが沢山出てきた。その中で戦時中のスケッチの色彩が非常に暗いことに気がついた。そして、月刊の絵画雑誌の記事に、ある評論家が次の趣旨のようなことを記していた。

 ”今は戦時中である。絵画も時代のものなら、戦意を高揚すべき作品がもっと沢山作られるべきだ…”と。父はそこに朱線を引き、強烈なまでの反抗メモを残していたのを覚えている。

 父の手文庫の中に次のハガキを発見した。『拝啓当院第三十回展覧会への御出品物 左記の通り入選仕り候間御通知申上候昭和十八年八月三十日 日本美術院 老僧』。「老僧」という作品が入選した通知である。

 これに応えて福田夕咲氏や真木潔氏から、新聞で入選を知ったお祝い申し上げるという便りがあった。


 戦時中、あえて「老僧」という題で出品した理由は、本人でないので知る由もないが、仏典の「兵戈無用」の叫びを訴えたかったのではないかと思うのです。後日、昭和二十七年に「栃目不動堂の壁画」(七日町二丁目)十五枚を作品化したのも、終戦八年目の事であるので“祈り”のような心情が基調にあったと思われる。翌年二十八年には高山市仏教会が主体となって養護施設趣意書を発表し、三十一年には「飛騨慈光会」が設立され、慈光園の園長になっている。

 これらの活躍もまた作品創意の中の一展開であったと思う。一人の僧として、また「富丸」と号して、絵画(春陽会員)、彫刻に精を出した人生を思う。

 過年、岐阜県立美術館で飛騨の絵画研究を展開し、作品が数点選ばれて展示され、続いて高山市民文化会館でも展示があった。
その中に栃目不動堂の壁画も展示された。

 栃目不動堂の壁画制作の時は戦後のこともあって、良質の絵の具が手に入らず、松華堂さんにいろいろ無理をいって調達してもらったことを母から聞いている。

 昭和十六年飛騨美術協会が発足し、初代会長。飛騨美術作家連盟創立メンバーであった。また、高山市文化財審議会長を歴任した。

 代表作として、高山市国分寺境内の「悲母観音像」、宮村水無神社境内の「上杉一枝像」などの彫刻がある。


 2003/9/26 更新(広報第84号より)  特別企画展 「大原騒動展」のご案内


「寒紅は無情の風にさそわれて  莟みし花の今ぞ散り行く」

 今から約二百三十年前、安永三年十二月五日、飛騨中をまきこんだ百姓一揆、大原騒動の若きリーダー、十八歳の本郷村善九郎が処刑される直前に詠んだ辞世の句です。善九郎のいさぎよい最期の様子は、役人達でさえも皆誉めたといいます。

 検地によって幕府財政の改善増収を図ろうとする大原彦四郎代官と、それでは食っていけなくなると検地反対で立ちあがった飛騨の百姓たち。安永大原騒動のもとはそこにあります。

 大垣藩への越訴、江戸での主席老中への駕籠訴、本郷村小割堤を初めとする各地での集会、そして一之宮での大集会。必死の抵抗は続きます。

 しかし、代官からの依頼を受けた郡上青山藩兵の鉄砲撃ちこみによって、一之宮大集会は壊滅させられます。

 駕籠訴や徒党の罪によって、磔、獄門、死罪、遠島、追放、過料など罰を受けた者およそ九千人、その中には、裕福な町人でありながら百姓に味方して伊豆新島に流され、そこで「飛騨んじい」と慕われた上木屋甚兵衛もいます。

 極刑を承知の上で、駕籠訴した六人や集会の指導者たち。彼らの心の底には何があったのでしょうか。

 百姓一揆というと、ムシロ旗を立て鎌や鍬を持った百姓たちが代官や米商人を襲うといったイメージを描くことが多いようです。しかし、安永大原騒動は単発的、衝動的に起きたのではなく、組織的、計画的に行われた一揆であったことが、今、明らかにされてきています。

 大垣へ行った者が約百人、江戸へは三十余人。これらの人々は勝手に向かったのではなく、各郷村の代表として選出され、旅費の支給、あとの家族の保証の一札等も受けています。また、各地で起きていた一揆その他の情報も入手しています。

 こういった飛騨の全百姓たちの組織力、情報収集力、それを支える経済力、そして、みんなのために尽くそうという意識の強さ、誠実さがあって闘われた一揆であったのです。

 「温故知新」(故きを温ねて新しきを知る)といいます。大原騒動の真相を知ると共に、その歴史の教訓を現代の飛騨に生かしていきたいと願って企画いたしました。


◆大原騒動展
 ー飛騨を愛して立ち上がった人びとー
・展示会
 十月十一日(土)〜十三日(月)
    午前九時〜午後五時(最終日は四時まで)
 高山市民文化会館三階講堂
・講演会
 十月十一日(土)午後七時〜
 高山市民文化会館小ホール
 講師/郷土史研究家 林 格男先生
 演題「大原騒動の真相」−その組織と連帯−