| 2003/05/21 更新(広報第82号より)
高山の文化を築いた人々20
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 高山の文化を築いた人々20 現代飛騨春慶塗の基礎を造った塗師 初代浅野利右衛門 浅野吉久
文化というと、文学・芸術などにかかわるものというのが一般的な考え方になっていて、職人の仕事はその範囲に入らないように思われがちである。しかし、文化が「伝統と創造」に根差すものとの視点を持つと、「たかが塗師屋」をこえて、飛騨春慶塗は文化の範疇に含めてもよいと思われるので、慫慂があったのを幸いにペンを執った。
飛騨春慶塗は、金森家の領国と共に召抱えられた成田三右衛門義賢に始まり、系譜上の直流は十五代目になっていて、塗法、意匠等その人なりに創意工夫を凝らして伝統を継いでいる。
近い所で目立つのは、十一代鈴木利助が幕末の飛騨郡代小野朝右衛門から子息鉄太郎(後の山岡鉄舟)用の槍の柄を春慶塗で仕上げるよう依頼された。茶器類と違って丈夫さが要求されるもので、利助は工夫に工夫を重ねて塗り上げ「さすが春慶塗の元祖」という賞詞を受け面目を施した。その子が、今回の初代浅野利右衛門である。
その利右衛門がなした幾つかの仕事から二、三とりあげる。まず、自らの受けた系譜を確かめ、更に調査を加えて『春慶塗累継書』を纒めた。初代三右衛門義賢から九代和泉屋勘兵衛までは、親子・兄弟・一族といった続柄で、十代・十一代(利助)は師弟、十二代(利右衛門)からは親子で、十三代が末尾になっている。
老松の根幹部は多量の樹脂を含んでいて、飛騨ではアカシと言っている。古来から割り箸のような棒にして火をつけた。このアカシの部分は漆となじまないうえ、膠による接着もできないので漆器としては不可能ということになっていた。これを可能にしようと試行錯誤・紆余曲折の末に完成させ、春慶塗には珍しい木地の透かしと堅牢さを持ったものになり、その技法は成田本流にのみ伝わる秘伝として伝えられている。
斯界への業績として、明治三十年に春慶塗問屋の福田吉郎兵衛氏の漆器工場設立に子の鈴木市二郎と参加し、市二郎を副工場長に、自ら工場長になって徒弟の養成・漆器の量産化をはかったが、日露戦争に徒弟応召で減り、工場は閉鎖となった。残った者は自宅で斯業を続けた。
 明治十八年の「繭絲織物陶漆器共進会」(略して五品共進会)が東京上野公園で催された。主催は農商務省、大臣にあたる農商務卿は西郷從道(西郷隆盛の実弟)当時の肩書は従三位勲一等伯爵、賞は全参加の中の五等賞ながら銀盃、受領には区長付添いで黒紋付羽織袴着用の上、郡役所(現高山陣屋跡)で授与が行われたという。受領の賞状の中央上部にべた金の菊花紋がついている(この後も二回参加し計三回受賞した)。これが契機となって桐本派・福寿派なども参加するようになったという。その後も共進会・博覧会など積極的に参加し、多くの賞を得ている。皇親の総裁の博覧会でも受賞しているが、こちらの菊花紋は輪郭だけの陰紋になっている。別に日本漆工会が隔年に行う「漆工競技会」があり、九次・十一次・十三次隔回参加をし、壹等・参等・壹等と受賞している。会頭は三回とも正二位勲一等伯爵田中光顯となっている。この会は、文字通り競技会だから意匠・塗法に毎回創意工夫の跡が見られることが前提の会であった。
この他、東海地区・岐阜県・飛騨地区の会にも参加し、多くの賞を得ると共に飛騨春慶塗の名を高め、販路拡張に力を尽くして来た。
最後に正慶の句二つ、
身の務めすみて待たるるいとまごひ
行く道も今来し道も法の道
(筆者は利右衛門の孫)
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