バックナンバー(広報第79号)

 2002/10/17 更新(広報第79号より)  中国滞在記4 見聞あれこれ その2 桐山吾朗


〔医療事情〕
 どの国の人間も、健康でありたいと願う点では変わりはないが、中国の特に中高年の年齢層において、この願望は格別強いものがあるようだ。 
 私が勤務した学校の近くにある北陵公園は、清朝建国期の史跡の周りを池や林が取り巻いている公園で、甲子園球場が八十あまり入るほどの広さがある。
 ここは、午前六時までは入園料がタダで、早朝から大勢の人が利用しているが、ほとんどが中年以上の男女で、園内各所で、三々五々それぞれの健康法に熱中している。一般的な散歩・ジョギングを始め、太極拳・剣舞・踏歌・社交ダンス・土嚢(どのう)投げ・水泳・卓球など、なかなか多様である。
 踏歌とは、隊列を組み、ラッパと太鼓の伴奏にあわせて、手に持った赤い羽根扇を振り動かしながら前進する踊りで、参加者も多く、鳴り物入りなのでよく目立つ。土嚢投げは、数人で一組となり、七、八キロぐらいの土の入った麻袋を反動をつけて投げ回す激しい連続運動で、男たちが上半身裸になって汗をかきつつ興じている。公園の中の広い池では、濁り水と遊泳禁止の看板をものともせず、常時五十人程が泳いでいる。全面凍結して観光用の馬ぞりが走るようになる厳冬期には,さすがに泳者は見かけなくなるが、少々の氷結は、臆せず表面の氷を割って泳いでいるから恐れ入る。
 他に、凧上げ、道路上での書道、胡弓伴奏による劇歌、樹木の背中擦りなどの<Xトレス解消組み≠煢チえると、健康志向者は相当な数にのぼる。さらに、これらの人達を目当てに、指圧師や歯科医、写真屋、飲食店、床屋、等々が露天に店開きをしていて、さしもの広い公園も人で満杯という印象である。
 こうした熱心な健康志向は何からくるのだろうか。勤務校の中国人教師の一人が出産休暇を取っていたが、彼女の給与票が、日語科職員室の机上にしばらく置かれたままであったのを好奇心から写真に撮ったことがあった。アルバムに貼っておいたところ、後日遊びに来た学生がそれを見て、支給項目を翻訳してくれた。洗理(クリーニング、理容)・書報(書籍)などのめずらしい手当てがある一方で、天引き欄の「保険」の項に数字の記載がない。符に落ちなかったので、別の教師に尋ねたところ、それは彼女が医療保険に加入していないからだという。日本では国民皆保険が建前だが、中国は任意になっているらしい。人民公社全盛期には丸抱えで面倒を見てもらえた医療費も、改組にともなって各人の自己負担に切り替わりつつあるようだ。ひるがえって考え、公園などで健康維持に頑張っている中高年層の姿には、無保険者の医療費負担を懸念する事情が背景にあると見るのはうがち過ぎだろうか。
 ことのついでに、中国の病院における受診体験を述べよう。中国語の勉強に北海道から来ていたK君が体調をこわして、始め中医病院(漢方の医療機関)にかかっていたが、ついには全く飲食できなくなり、私のところに相談があったので、中国医科大にいる日本語教師仲間に頼んで手配をしてもらい、付添いの友人らとタクシーで駆けつけた。この大学は、日本人が設立した旧満州医大を前身とする、現中国でも有数の医科大学で、大きな付属病院がある。ちなみに、当市の梶井助役が前職の自治医大勤務時代に、こことの交流事業のために、数回訪問されたことがある由。
 さてここからが日本と違う中国流。まず受付で二種の受診コースのうちどちらかを選択しなければならない。一つは、どの医師でもよいという一般診療であり、もう一つは、患者が医師を選ぶ指名コースで、無論、このほうが診療報酬は高くなる。
一助として、受付の壁に医師の顔写真がずらりと並び、その下に学歴・職歴・担当分野の病名などが書かれたリストが示されている。K君の場合、たまたまあいている医師を選び、診察室に通されると、中年の女医さんが現われて丁寧に問診する。付き添いの日本語科の学生が通訳しながら答え、ようやく聴診器で診察が始まった…と、その時気がついてみると、周りに見知らぬ数人の人間が、まるで付添いであるかのような顔で医師とのやり取りをのぞき込んでいるではないか。すぐにも追い払おうとしたが、医師は一向に意に介しておらず、看護婦も平気である。後から聞いた話では、患者や付添い連中が院内を徘徊していて、自分に関わる情報を求めて診察室や入院病棟にまで入り込んでくるのだそうで、″同病相憐れむ″とはいえ、こんなプライバシー無視の状況には唖然としたものであった。
 2002/10/17 更新(広報第79号より)  高山の文化を高めた人々17


高山の根付と江戸で修業した彫刻師たち(2)
高山の根付は世界の根付
江 黒 亮 一

 高山の根付彫師たちのことをここまで解明した小峰大羽氏は東京の人で、日本画家・俳人・文筆家で明治四十年頃高山へ移住された。
 郷土誌「飛騨史壇」を中心に種々の研究・エッセイなどを発表、山ずみ会で俳句の指導、また加藤家の「蘭亭遺稿」の編纂など高山文化の貢献者である。
 高山の根付についても「亮派の刀工たち」のテーマで、始祖平田亮朝の江戸ぐらしから没年、菩提寺の墓碑文まで調査解明され、この一文もそれに基づいたものである。

 ●世界の根付
 先の世界大戦で敗戦の悲惨さを知った日本。今まで隔絶されていた欧米文化が、進駐軍により堰を切って流入し交流が始まった。敗戦で何もかも欠乏のどん底に喘いでいた国内を巡って買いあさったものの中に根付があった。
 細密巧緻な彫り、しかも手ごろな美術工芸品として、進駐軍人をはじめ多くの愛好者が生まれ、根付は高く評価された。能、歌舞伎、漆などとともに、世界共通用語「NETSUKE]となった。
 私の知る、レイモンド・ブッシェル氏も熱心な愛好者で、根付印籠に関する著書数冊の一冊に松田亮長と江黒尚古(亮忠)の根付が写真で紹介されている。
 昨年はドイツのシュツットガルトのリンデン美術館に、江黒亮忠作「河童と蛤」の根付が展示されていると、東京の根付研究家嶌谷氏から連絡があり、高山の根付が世界的に評価されていることを知った。
 先年ロサンゼルスで世界根付会議が開かれ、日本代表として高円宮夫妻が出席されたと、新聞は報じていた。しかし根付が生まれた日本では、根付という言葉は死語に近く、先年フランスのマルセイユの愛好家が知人の案内で、わが家の根付を見に来た時、通訳の学生が根付を全く知らず、まずその学生に根付の説明をしなければならなかった。
 人間の手が持つ無限の創造性を忘れ、手仕事をおろそかにして、便利さだけを追求する現代、余りにも情ない。手仕事に生き、秀れた作品を遺しながら、噂にもならず、知る人もなく消え去った多くの先輩職人たちのことを思い改めて追慕する。
 高山市文化協会から、「高山の文化を高めた人」に、根付彫について書くことを要請され書いてみたが、果してその主旨に添えたかどうかは諸賢のご判断にお任せする。

 ●消えた伝統工芸
 平成になって消えた伝統工芸「一位細工」について附言させていただく。岐阜県の木、高山の木である、一位の木で作った一位細工。あの独特のあざやかな白太を持つ艶やかな木肌、比類ない美しい木目を生かした一位細工。歴代天皇の即位式に必ず制作献上した「笏」、また″八百万神はあれども昔より一位の上になる神はなし″の古歌による「雷除伝説」など歴史と伝説をもつ一位細工が、先の世界大戦後次第に衰え、名工糠塚喜一郎氏の死去により遂に絶えた。
 波千鳥や三日月透しの見台、白太で縁取った文筥、短冊筥、唐ひつ型煙草盆など気品ある優雅な形、市松模様のたたみ込み蓋の刻み煙草入の機能性、扇子型箸入の大衆性など、独特の鉋を使う技を継ぐ職人も無い現在、かつては一位細工は、一位一刀彫をも含めた大きな存在で親しまれたことを思えば感無量である。もう誰も口にする者もなく、まして記録にする者もない現在、せめて多少のかかわりをもつ者として惜別の言葉を添えさせていただく。
 なお根付について、本年四月に、日本根付研究会の大会が高山で開催された。
 職人となること
   きびしき夜なべかな
           木鳥
 2002/10/17 更新(広報第79号より)  飛騨高山の陸封文化を守る旗手として


(社)高山市文化協会  会長 小鳥幸男

 飛騨高山へ入るには、東西南北どの道をとっても、必ず幾つかの峠を越えなければならなかった。隨って、飛騨人は、諸国の文物を移入するにしても、峠の前で、荷の中味を吟味しなければならなかった。
 仮に他国なら、平坦な道で、十個の荷が運べるとしたら、飛騨の峠は、その荷のどれかを捨てて、軽くして超えることを必然的に要求した。
 飛騨人は、峠を越えるたびにその荷の中のどれが良いもの、どれが貴いもの、どれが美しいものかの選択を迫られた。必然的に飛騨人には、それらの物を峻別する目と知識が求められた。この峻別されたものは、必ずしも有形のものに限定されない。
 かくして移入された飛騨の文物は、すべて美しきもの、貴きものであったから、飛騨人は、これらのすぐれた物しか目にせず暮らした。
 飛騨高山に、伝えられた独自の文化が有るとしたら、このような経過の中で、峠が育てた文化であったと思う。この峠は又これらの文物の流出も拒んだ。
 このような文化を、私は″峠が育てた文化″と呼び″飛騨の陸封文化″と表現している。
 陸封魚と呼ばれるヤマメは、本来遡河魚のサクラマスであったが、突然海へ下ることを拒まれて、陸地に住みつき、本来の遡河魚の習性を失うと同時に、陸封地において、独自の生活習慣を生み出したものだが、飛騨の文化も正しく都の文化を断った峠で、陸封され、醸成されて育ったことを思えば、飛騨の陸封文化の独自性が容易に理解される。
 しかし、今、或る意味では経済や、産業も含めて飛騨の文化を守った峠が、自動車道路の建設が進む中で次々とトンネル化して失われて行き、最後の小鳥峠のトンネル開通を目前にしている。
 文化に新しい風の必要なのは論を俟たないが、風が吹くたびに独自の伝統文化が崩れて行くことも火をみるより又瞭かである。
 今度高山市では、当協会多年の要望事項であった″文学資料館″の建設を平成十六年三月迄に進められることを決され、先人滝井孝作、江馬修の資料をはじめ、近代の高山の文学に関った有名無名の市民の資料などを中心に収集展示されることとなった。また、これもかねて当協会が願望し、実現のために募金活動を進めて来たところの″伝承文化館″の建設も、平成十五年度完成の目論見のもとに計画を進められている。
 一方において、近代化の波が押し寄せる現実を正面から見据えながら、今日、飛騨高山が世上かくも注目されている由縁のものは、すべて長く陸封されて来た独自の文化を、守り伝えている飛騨高山人の努力と智恵と高い思想に外ならない。
 高山市文化協会は、その旗手としての使命を更に自覚したい。