バックナンバー(広報第78号)

 2002/08/01 更新(広報第78号より)  高山の文化を高めた人々17

高山の根付と江戸で修業した彫刻師たち(1)江黒亮一

「根付」とは鍵、巾着、印篭、煙草入などを、帯と腰の間に挟んで吊す紐の端にとりつけた物の事で、発祥の桃山時代には瓢箪、貝、竹根などを利用していたが、印篭や巾着など多く使われるにつれ、絵師、仏師、金工師たちが余技として作るようになった。享保時代に根付専門の彫師が生まれ、金持、商人、芸人など根付に金をかけ贅をつくす者が現れた。

文化文政時代は根付の黄金時代といわれた。それは幕府が庶民の奢侈贅沢を禁止したため、目立たぬ根付に金をかけるという庶民の知恵であった。

根付には象牙や黄楊、棗、桜など堅木を使い、4、5cm角の中に彫師が発想をひろげ、人物、動物の生態をデフォルメし、その彫は精巧緻密で、格好の掌中愛玩の美術工芸品である。

しかし時代の変遷、西洋文化の流入による生活様式の変化と共に根付の使用は減り、明治後期になって庶民から離れ、忘れられてしまった。
 
−−−高山の根付彫師たち−−−

まず江戸で生涯を終えた、平田亮朝が根付彫の始祖である。次に江黒亮春、松田亮長、広野亮直、中村亮芳、浅井一之、江黒亮忠、津田亮定、江黒亮聲、江黒亮年、津田亮則など皆故人である。

始祖平田亮朝は、若くして江戸に出て根付彫の初代山口友親の弟子となり修業、小間物問屋の日野屋のお抱え彫師となり、浅草橋近くに住み、三十八歳の若さで死去、浅草竜谷寺に葬ったと伝えられている。
その竜谷寺を、先年東京の友人の助力で、台東区寺町に探し当てたが、関東大震災と、先の戦争と二度の災厄に遭い、何の手がかりも得られず、やむを得ず供養をお願いして来た。未完成ながら、遺作がわが家にある。

−−−江戸で修業した彫師たち−−−

当時飛騨は天領であったが、江戸往来の役人や商人によって華やかな江戸文化が直接流入しそれを聞かされ、若者たちは、皆ひたむきに江戸に憧れ、江戸へ行く夢を抱いたのであった。

わが祖、江黒亮春(豊吉)は、天保十四年(一八四三)十二歳で平田亮朝を頼って江戸へ出て亮朝の許で根付彫を修業、その末弟の江黒亮忠(尚吉)は、慶応三年(一八六七)十六歳の時兄亮春を頼って江戸へ出て修業した。父浅吉が江戸通いの小商人であったので父に連れられてであったが、高山から幾山河越えての苦難の道中に耐えて念願を果たした。その意欲には子孫として頭が下がる。

修行を終えて帰ったのは亮忠が先で明治六年、八軒町に住み根付彫刻に専念、後年は、尚吉の別号で一般彫刻も手がけた。代表作に桜山八幡宮の大神輿の彫刻、屋台の鳩峯車の彫刻、高根村大徳寺、郡上明方村浄光寺の欄間彫刻などがある。

亮春は晩年になって帰り亮忠宅に同居、絵が巧みで渋草窯で絵付の仕事もしたが、独身の生涯であった。

亮忠の長男房吉は明治三十二年上京、高村光雲、米原雲海、関野聖雲、平櫛田中等の日本木彫会の森鳳聲の門に入り、本格的に木彫の修行をして明治四十年帰る。号の亮聲は師鳳聲の聲と家系の亮を合わせたもので、仕事は根付より仏像や置物など一般彫刻が中心であった。代表作に東山善応寺本尊釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩、長崎市延命寺の薬師十二神将、荏名神社神輿の彫刻など、また現天皇生誕祝に県献上品(鵜飼舟)を製作した。

江戸で修行した彫師は、何故か江黒系だけであるのも不思議である。

松田亮長が平田亮朝の弟子と伝えられているが、亮長は亮朝より年長で、根付彫は地元で谷口与鹿を師とし、秀れた素質に恵まれ大成、知名度も高く地元に多くの秀作が残っている。 旅が好きで付知町の旧家にも作品多数が残っている。江戸で亮朝との出逢いも一年足らず、亮朝とも対等のつき合いであったとしか考えられない。

亮長のことを詳しく知りたく、その子桃吉さんを小坂町に訪ねたのは、昭和十年頃で縁者の離れ家に老いを侘しく暮らしていられた。しかし、亮長の遺品はほとんど無く、煙草代や貸したままのもの、だましとられたものもある、と淋しく語られた。

亮長の墓が未だ所在不明で、小峰大羽氏と父亮聲が東山墓地界隈を数回探したが、遂に見つけることができず、残念がっていた。
 2002/08/01 更新(広報第78号より)  文化協会研修旅行報告(6月12日〜13日)

宗和好みの茶室・六窓庵とオペラ・カルメン

今年度の研修旅行は東京。金森宗和好みの茶室「六窓庵」と、オペラ「カルメン」を見る旅。四十名が参加した。 

東京国立博物館園内にある金森宗和ゆかりの茶室「六窓庵」。これは一般公開はされていないが、今回、高山出身の上田氏の手配と館職員佐々木氏の案内説明でその見学をすることができた。

六窓庵は、もと奈良興福寺慈眼院に、慶安年中、金森宗和の好みで建てられたという。明治八年に移築、太平洋戦争中は解体疎開され、戦後再建されたものである。

外観は茅葺入母屋造の妻を正面にして、前面に柿葺の庇をつけ、内部は三畳台目で六つの特色ある窓を備えている。

国立博物館内でも最も古い茶室として、穏和で端正なたたずまいを見せている六窓庵。   近い将来、城山の金森将監屋敷跡に建設予定の文化伝承館にも、こうした風格ある茶室があればと感じた。 

研修旅行のもう一つの目玉は新国立劇場のオペラ「カルメン」の観劇である。四年前に造られた新しい劇場のS席で、表情豊かで迫力ある歌劇を満喫することができた。

今回の研修旅行は、参加者に多くの感動感銘を与え、心を豊かにできて文化協会ならではの満足旅行であった。
 2002/08/01 更新(広報第78号より)  中国滞在記4 見聞あれこれ その1 桐山吾朗


掲載の回数にも限りがあるので、仕事と生活を中心にした前回までの報告を離れて、在華中に見聞した事柄の中で印象深かったことを述べたい。

〔交通事情〕
中国で最も利用される交通機関は、公共汽車(バス)である。街中くまなく路線網が行き渡っていて、市内に限れば、どれだけ乗っても1元(約13円)以内で行けるし、乗りそこねても、すぐに次のが来るので、安くて便利な庶民のアシとなっている。

日本には少ない2階建て型や2台連結型があり、車体には広告が色鮮やかに描かれていたりして、見た目は楽しめるが、中に乗り込むと、座席が木部であることを皮切りに、床は泥、ごみ、痰で汚れており、窓ガラスにひびが入っているとか、連結部のゴムが破れていて、冬には寒風が吹きこんで来るし、乗り心地は決してよくない。ドアの開閉もぎくしゃくして不備な車両が多く、若い娘でも足で蹴ったりして乗降している。拙歌を一首。

「下車!」と叫びてバスの戸蹴り開ける慣い身に付くわが身寂しむ

中国では、こうした市内循環のような近距離だけでなく、長距離路線も発達していて、北京西駅前のターミナルに並ぶバスの中に「呼和浩特(フフホト)」や「西安」行きの標示があるのを見かけて驚いた。呼和浩特は内モンゴル自治区の区都であるし、西安にいたっては、1000km以上隔たった陝西省の有名な古都である。火車(汽車)でも車中泊が必要であるから、バスだったら行きつくまでに二、三泊しなければならないだろう。

学生の案内で、瀋陽の衛星都市の一つ鞍山市に出かけた折の帰途、汽車のダイヤが合わずバスに乗ったことがあった。市内循環のバスと比べれば、さすがに椅子の張りもいい。が、100km余ほどの距離を約二時間かけて走るうち、高速自動車道を部分的に利用するものの、サービスエリアやドライブインらしきものもなく、したがってトイレ休憩もないまま走るので、その間尿意を押さえ続けるのは大変な難行であった。

瀋陽の街中では、あずき色の出祖汽車(タクシー)が、いたるところを走りまわっている。初乗り6公里(km)で10元、後は1公里ごとに1.5元くらいで、バスに次いでよく利用される。

タクシーの大部分の車種は、ひところ日本でも走っていたワーゲン社のサンタナで、洛陽に旅行した時に乗ったタクシーは、日本車のアルトであった。どちらも、過去の型式であるが、中国において再生産しているものと思われる。アルトとわかった時には、かつて家内の愛車であったこともあって、旧友に出会ったような感動を覚えた。

ところで、中国のどこのタクシーも、運転席は自衛のために鉄パイプとアクリル板で囲われている。前回で触れた「囲み文化」がここにも現れていると見た。タクシー強盗などから身を守るための自衛策だろうが、ロンドンのタクシーが客席との間に仕切りを置いているのとは違って、小型車の余裕のない空間がいっそう狭くなり、不便なことこの上ない。

クルマといえば、最も驚いたのが、冬季に普通タイヤで走っていることである。積雪量は少ないが、中国内陸部の厳しい寒さで、踏み固められた雪は石のようになる。そこを結構なスピードで走るのだから、そんな時にタクシーに乗ると生きた心地がしない。後部座席に座っていても、気がつくと、思わずブレーキを踏む仕草をしていた。

レンタカーのたぐいがあるのかどうかは調べてみなかったが、仮にあっても、中国では車の運転はご免であった。道路幅は広いのだが、右側通行である上に、通勤時間帯の自転車の波、バス・トラック・馬車・自転車で押すリヤカーなど種種雑多の車両の混走、また歩行者による辺りかまわぬ横断、といった状況の中を運転する気にはとてもなれなかったからである。